81年を経て「赤城」発見!巡洋艦から空母へ改造された理由と多段式甲板の衰退
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帝国海軍の主力艦として建造された空母「赤城」

米国の海洋大気局は、15日に太平洋戦争中の1942年のミッドウェー海戦で戦火に散った旧日本軍の空母「赤城」の海底の映像を初めてキャッチし、その写真や動画を世界に公開した。

赤城の沈没場所は2019年に明らかにされていたが、実際に映像でその姿を捉えることができたのはこれが初めてだ。

ミッドウェー海戦で命を失った赤城は、81年間の静寂の中で深海に横たわっており、今、我々の目の前に姿を現した。

その光景は、戦時中の緊張感と平和の時代が交錯する感慨深い瞬間である。

「赤城」は艦上機の発着艦の効率化を狙った複合甲板で上段が発着艦兼用、 中段と下段が発艦専用という世界でも珍しい3段式飛行甲板空母であった。

今回は、帝国海軍が誇る大型艦隊空母「赤城」のメカニズムと兵装、そしてミッドウェー海戦での壮絶な最期について解説していこう。

しまかぜ

この内容は動画でも見れるよ!

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空母「赤城」のメカニズムと性能

大正14年、広島県呉市の海軍工廠にて赤城は巡洋艦として起工された。

ところが、ワシントン軍縮条約により巡洋艦としての建造は中止となり空母へと改造されることとなった。

ワシントン軍縮条約とは、当時アメリカと日本が新しい艦艇を建造する中、各国政府はこれ以上の軍備競争には耐えられないという理由から、軍事大国がお互いに軍縮を目的とし制限を設けた条約である。

この条約により、武器の数や1隻あたりの排水量も最大2万7000トンに制限された。

これにより未完成の軍艦は破棄されることになったが、 空母の保有枠に空きがあった日本は赤城を空母へと改造することが認められた。

しかし、この時点で赤城は巡洋艦としての船体工事がかなり進んでおり、さらに帝国海軍初の大型空母建造ということで作業は難航した。

赤城の排水量は実際には3万3000トンに達しており、ワシントン軍縮条約の制限を越えていたが、 保有空母2隻までは排水量3万3000トンが許容された。

竣工時の赤城の船体は全長 261m、 幅 29m、 乗員約1300名で、艦上機の搭載数は分解した補用機を合わせると合計 60機であった。

(横須賀停泊中の赤城と長門)

赤城の特徴ともいえる3段式飛行甲板は、 世界的にも珍しく、 イギリス海軍の2段甲板空母 「フューリアス」 を参考にしたといわれている。

飛行甲板は上段が艦上機の発着艦兼用となっており、中段と下段を発艦専用で使用していたが、 中段飛行甲板の前部に 20cm 連装砲を2基設置したため、 航空機の運用が不可能となり上段と下段の2箇所の運用となった。

下段格納庫の高さは約5m で、ここに格納される航空機は一部が分解された予備機であった。

一方、中段格納庫の高さは約6.4mと高く、大型の機体も運用でき、さらに後部側は開放できる仕組みとなっており、着水した水上機を吊り上げて運用することも可能であった。

右舷側に航空機用エレベーターが2基設置され、そのサイズは前部が13m×11.8m、後部が、大型機でも主翼をたたまずに格納庫からの出し入れが可能であった。

次に赤城の機関のメカニズムであるが主燃料は重油 3,900 トンと石炭 2,100 トンで、当時の艦艇では最高となる13万1200馬力という大出力であった。

もとは巡洋艦として計画された船体ベースであるため速力は31ノット (時速約57km) を発揮した。

しかし、 大出力がゆえに排気処理が問題となった。

上段の艦上機に影響しないように排気管は海面に向かって排気する構造となった。

この排気口は海水によって冷却され熱対策がとられていた。

高速時には重油と石油の混合を使用したため、煙突からは黒煙と白煙の2種類の排気がみられた。

防御面においては、敵巡洋艦との砲戦を考慮して102mmの装甲が施され8インチ砲に対して1万m程度の距離までは耐えることができた。

しかし飛行甲板は特別な防御策がとられておらず、これは条約による排水量の制限という縛りのほか、建造時に急降下爆撃機がまだ存在していなかったことが考えられる。

初期の艦上機にとっては、赤城のサイズは大きすぎるくらいであったが、その後、艦上機は急速に発達したことから、赤城のサイズでも運用が困難となり、近代化改修で3段飛行甲板は1段全通甲板に改造され、長さは249mに延長された。

この改修によって、中段と下段の甲板が格納庫に転用されたため、艦上機の搭載数は 60 機から 91 機に増加した。

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試行錯誤した赤城の兵装

赤城の兵装は敵巡洋艦に対抗できるように20cm砲が10門装備された。

この数はワシントン軍縮条約で定められた 「8インチ (20cm) 以下、10門まで」という制限一杯であった。

砲弾は1発の重さが110kg でこれを発射するための装薬は35kg であった。

中段飛行甲板は艦上機の運用を犠牲にして20cm連装砲が左右に設置されたことから 「砲塔甲板」 と呼ばれることもあった。

さらに後部側にも同じく20cm単装砲が左右に3門ずつ設置されており、斜め前方の目標であれば最大7門の火力集中が可能であった。

しかし、前部に装備された2基の砲台は横並びであったため、斜め方向の目標に対し同時に指向するためには片方は40度という狭い角度までしか旋回できなかった。

一方、対空兵装は、 就役時に連装砲塔である12センチ高角砲を左右で6基の合計 12門を装備していた。

最大射程 16,000m 発射速度は毎分10発前後であり、当時の航空機の能力を考えれば妥当な能力であった。

しかし装備位置が低いという問題から反対舷側の攻撃ができず射界が狭いのが弱点であった。

その後、 近代化改修により連装砲が追加され、 左右で8基16門となった。 さらに弱点であった射界は装備位置を変更したことにより反対舷への射撃も可能となった。

また時期については不明であるが、 当初は装備されていなかった砲盾も追加装備されている。

当時、日本は大型空母の建造経験は 「鳳翔」 だけで兵装や装備位置については試行錯誤の段階であった。

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ミッドウェー海戦 暗号解読による赤城の悲劇

ミッドウェー環礁はアメリカからすれば日本への中継地点であり、 日本からすればハワイ諸島への中継となることから、お互い譲れないポイントであった。

1942年5月27日 赤城を旗艦とする加賀、蒼龍、飛龍で編成された第1機動部隊が瀬戸内海を出港し、 ミッドウェーに向かった。

ところが、日本が送った暗号がアメリカ側に解読されるという致命的なミスを犯した。

それが後の戦況に破局をもたらすこととなった。

日本側の作戦を知ったアメリカはパールハーバーに停泊中の空母を全て退避させた。

日本はパールハーバーを爆撃するも、そこには空母が1隻もいなかった。

その後退避していた米空母エンタープライズから艦上機が飛び立った。

赤城はその航空機への対空射撃を行わず、艦上機の発艦を優先した。

また格納庫内では米空母攻撃のために、兵器を爆雷に換装していた最中、敵機の急降下爆撃により赤城の左艦尾と中央エレベーター付近に爆弾が命中し火災が発生

幸い、 機関は機能しており舵は故障するも行動不能状態には陥っておらず、復元力に影響するような大きな浸水はなかった。

しかし、2発目の爆弾が中央部分に命中し飛行甲板の零戦が炎上、さらに格納庫内で燃料と兵器を満載した艦上機に引火して大爆発が発生した。

この時点では艦長以下も健在であったが、 適切なダメージコントロールの指示が出されず、 また報告の遅れなどから機関科の乗員が現場から逃げ遅れて戦死した。

炎は激しさを増し、鎮火は不可能と判断された赤城は秘密保全のために最期は味方の雷撃により撃沈させられたのだった。

結果的に、 たった2発の爆弾による大火災が赤城の命を奪うこととなった。

そして第1機動部隊の加賀 蒼龍 飛龍もミッドウェー海戦で撃沈し全滅するという悲劇となった。

当初は巡洋艦として建造され、空母に改造されることになった「赤城」は効率化を狙った3段飛行甲板であったが航空機の発展に伴い1段飛行甲板へと生まれ変わった。

また戦況に適応させるため兵器なども幾度となく改造された。

赤城の敗因となった大火災へのダメージコントロールという課題は以降の日本空母に反映されることとなった。

帝国海軍が誇る大型空母「赤城」の最期は皮肉にも味方の駆逐艦の攻撃により沈められて、その生涯を終えることとなった。

そして太平洋戦争は転換期を迎えることとなった。

次の動画では、世界最大最強の主砲をもつ戦艦大和が2時間で撃沈した理由について解説しよう。

 

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