【激戦】戦艦大和の最後!生存者はたった246名。艦長は大和と共に…
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戦艦大和は大日本帝国海軍が建造した史上最大の 46cm主砲3連装9門を装備した超弩級戦艦である。

現在は鹿児島県「坊の岬沖」の海底345mで静かに眠っている。

戦艦「大和」の主砲削った巨大旋盤、70年経て現存: 日本経済新聞

大和の計画と建造は極秘で行われ、アメリカやイギリスに大和を越える戦艦を建造されないように周到な準備の上で実行された。

造船所を見下ろせる場所には塀が建てられ、ドックのサイズから艦の大きさが分からないようにするためドックの半分に屋根が設けられ、船体全面には目隠しが張り巡らされていた。

世界最大の大艦巨砲が大海原へ~国家財政10% 「大和」「武蔵」の進水~ (2019年10月24日) - エキサイトニュース(2/5)

また、建造に関係した者は自分の担当部署以外の情報は知ることができず、設計図は焼却処分され、意図的にスペックダウンされた数値が登録されるなど、徹底して大和の情報が外部に漏れるのを防いでいた。

今回は日本が世界に誇る戦艦大和の特徴と、沖縄作戦での壮絶な戦いの最期について紹介する。

しまかぜ

大和の激戦が動画で見られるので、最後まで見てね!

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世界最大の戦艦「大和」のスペック

建造時、極秘とされていた大和のスペックを見てみよう。

大和のスペック

・全長263m
・幅38.9m
・満載排水量72809トン(基準排水量64000トン)
・153553馬力
・最大速力 27.46 ノット(約 50km)
・最終時の乗員は3332名
・建造費は1億3千7百万円
(現在の建造費では約2500億超)

大和は戦艦としては世界最大の排水量と直径46cm 主砲3連装9門を備えており、サイズ、主砲ともに世界で建造された戦艦の頂点であった。

特に46cm主砲は国の最高軍事機密として扱われていた。

第2次世界大戦で就役した戦艦は80隻で、その主砲の数は合計744門にも及んだが、その頂点に立ったのが大和の46cm主砲だ。

他の戦艦と比較してみると、

・「長門」「陸奥」41cm砲
・米戦艦アイオア級、英戦艦ネルソン級40.6cm砲
・独戦艦ビスマルク級38cm 砲

このように大和の主砲が、いかに巨大であったかがわかる。

この巨大な主砲を前部甲板に6門、後部甲板に3門装備しており、同じ方向に発射した場合、その反動力はなんと8000トンにも及ぶといわれている。

もし強度不足があれば、船体は破損したり湾曲したりするため、内部は 1m間隔でキールと呼ばれる強力な骨組みが組まれていた。

ただ、世界最強の46cm砲にも弱点がないわけではない。

昭和20年に!タイムスリップ】: yumenakama08

引用:http://yumenakama08.cocolog-nifty.com

その凄まじい破壊力がゆえに、当然、砲に与える衝撃もすさまじく、発射するたびに砲身は衝撃と高熱ガスにより精度が下がってくる。

この限界を超えると、砲弾の弾道が狂い、命中率が下がってくる。

砲身の寿命は200発で、この数字を「命数」(めいすう)と呼んでいた。

命数に達すると、精度が下がるだけならまだしも、最悪の場合、砲身内で砲弾が爆発する恐れもあるのだ。

そのため、命数に達した砲身は新しいものと交換しなければならなかった。

戦艦大和

攻撃力だけでなく、大和の防御壁の厚さは甲板 200~230mm、舷側 410mm、艦橋 500mm、主砲防盾(ぼうじゅん)650mmという分厚い鉄壁で覆われていた。

このように大和は戦艦の中では世界最大・最強の最新鋭戦艦であった。

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戦艦大和出撃!特攻作戦の末・・・

戦艦大和

大和は 1941年(昭和 16年)12月16日に広島県呉市の海軍工廠(こうしょう)で就役進水式は通常派手に行われるが、極秘建造の大和の式典は軍の高官 100名と作業に関係した者のみで行われた。

1942年(昭和17年)2月12日 連合艦隊を率いる旗艦(きかん)となる。

1945年(昭和20年)沖縄海上特攻作戦の旗艦として駆逐艦をひきつれ、日本海軍最後の艦隊作戦といえる「沖縄作戦」に出撃したが、米軍の第58機動部隊の空母軍との戦闘で約309機の航空機による猛攻撃を受ける。

爆撃機4機が艦尾から急降下し500キロ爆弾4発を投下し大和の後部マストを破壊。

炎上により炎と煙で米軍機を確認することが困難となった。

さらに魚雷隊が第1波攻撃で大和の左右から9本の魚雷を命中させた。

度重なる攻撃により合計 29発の魚雷が命中し、特に魚雷が命中した左舷に大きな被害を受けた。

この魚雷攻撃により大規模な浸水が発生し、大和は左に15度傾き、速力が18ノット(約33km)まで落ちた。

この時甲板上の対空火器は米軍の猛攻撃によって全滅していた。

13時25分 通信機器が破壊され味方との連絡手段が途絶えた。

13時42分 米軍のさらなる波状攻撃が続き、1000ポンド爆弾、魚雷攻撃5発、爆弾 27 発を受ける。

大和の艦内は大火災と攻撃による死傷者が多数出ており、混乱状態となっていた。

船体の傾きが20度、30度と大きくなるにつれ、主砲と副砲の射撃が不可能となり、舵もコントロール不能に陥った。

14時には注排水指揮所との連絡が途絶え、操舵室が浸水により全滅。

この時、有賀艦長は大和の最後を悟ったという。

14時15分、火災による熱で弾薬庫の温度上昇による警報ブザーが響いた。

しかし、それを食い止める人員も機材も時間さえ残っていなかった。

米軍の駆逐艦からは、大和の赤く塗装された艦腹(かんぶく)が見えており、かなりの傾きが確認できた。

そして、最期の時はやってきた。

空母ヨークタウンの雷撃機6機により、右舷後部へ魚雷が命中。

直撃した魚雷の衝撃は大和の艦橋上部まで伝わってきたと生存者の証言が残されている。

コントロール不能となっている大和は攻撃を避ける手段もなく、艦橋では「有賀艦長」が無言で魚雷が命中するまで見つめていたと証言されている。

14時20分、大和はゆっくりと横転していった。

大和の最後のとき、有賀艦長は羅針盤を掴んだまま我が艦とともに海中に没した。

海面から見えた右舷のスクリューは最後まで動いており、沈没の際、2番主砲の爆薬により誘爆が発生、海面に漂う生存者の上に破片が降り注ぎ、それにより命を落とす者もいた。

最後の大爆発で、世界最大の戦艦の船体が2つに折れ、坊ノ岬沖の海底へと沈んでいった。

(文献によっては3つに折れたという記録も残っている。)

この時の大爆発による、きのこ雲や火柱は鹿児島からも見えたという。

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2時間の激闘と生存者

大和の2番艦の武蔵も魚雷 20本以上、爆弾20発の猛攻撃を受けたが、9時間もの間を耐え抜いた。

しかし大和は戦闘開始から約2時間という短い時間で沈没した原因は、魚雷攻撃が左舷に集中していたこと、また天候状況から米軍機の視認状況が悪く、攻撃目標も大和に集中していたことなど悪条件が重なっていたことが考えられる。

また、世界最大の巨艦では、敏速な回頭ができず、航空攻撃を避けることができなかった。

船体が大きい分、敵の攻撃の的にもなりやすいのだ。

一方、米軍の被害は6機が墜落、47機が被弾というものであった。

米軍の記録では「風評どおり極めてタフなフネだった」と述べられている。

この戦闘により、大和に乗艦していた伊藤司令長官、有賀艦長、以下乗員 2740名の尊い命を失った。

一億総特攻の魁、戦艦大和の最期・坊ノ岬沖海戦のこと - うつつなき太守のブログ

生存者は 270 名前後と記録されており、重症を追った者、体中重油だらけの者、大やけどを負った者など、海面で何とか生きようとする乗員たちが冬月、雪風により救助され、4月8日の午前、佐世保に入港した。

大和は極秘で建造され、就役後も公にされることはなく、その存在は常に秘密であった。

そのため、後日の朝日新聞の記事では「大和」の名前をはじめ、戦闘の詳細すら報道されることはなく、人知れず戦いの幕を閉じたのだ。

1945年、8月31日、大和を含め4隻の戦艦と4隻の空母が帝国海軍から除籍された。

海底に眠る大和の調査

1985年(昭和60年)戦後40年を説目に、沈没した大和の海底調査がイギリスの調査船により行われた。

7月30日、海底345mで大和の巨大な主砲とスクリュー、艦首の菊の紋章が発見された。

船体は一番主砲と二番主砲を境に、2つに折れており、主砲塔もすべて脱落していた。

4つのスクリューのうち3つは無傷で付いていたが、1つは脱落し海底に突き刺さっていた。

世界最大の46cm主砲は9本のうち、ほとんどが海底の泥に埋もれて確認できないが、一番主砲塔は海底に塔のようにそびえたっていた。

そして海底に散乱する、いくつかの遺品が回収された。

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戦艦大和 まとめ

戦争というものは、予期した状態で始まり予期した状態で終わるようなものではない。

その時の状況に合わせて戦い抜かなければならないのだ。

大和が戦艦としての能力が決して劣っていたわけではない。

ただ、時代の流れで戦闘の主力の座は戦艦から空母へと変わっており、世界最強・最大の戦艦だった大和でさえ、敵航空機の前では厳しい戦いを強いられたのだ。

呉市の旧海軍墓地「長迫公園」には「戦艦大和戦死者之碑」が建てられ、鹿児島県の徳之島にも「戦艦大和慰霊塔」がそびえ立っている。

鎮魂・戦艦「大和」(4月7日)

その塔の高さ大和の司令塔と同じ24mである。

戦艦大和慰霊塔(徳之島)|九州への旅行や観光情報は九州旅ネット

大和が極秘で建造された呉市の旧海軍工廠(こうしょう)、現在のジャパンマリンユナイテッドのドックは埋め立てられているが、建造時に機密保持のために作られた屋根は現在も残っている。

広角レンズ】旧呉海軍工廠を訪ねて(上)近代化のトップランナー…70年目で世界一の戦艦・大和を造る - 産経ニュース

そして、戦艦大和は現在も「坊の岬沖」の海底で静かに眠っている。

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